水沼の蒲が原(がまがはら)
慶長3年 (1598年) 溝口秀勝候が加賀国から新発田に入封(にゅうほう)された頃、北蒲原の地域は現在と全く違う姿をしていた。
この時代信濃川から荒川までの間に、海に注ぐ川が一本も無く、海岸線には砂丘が連なり、内陸には大小の潟湖点在していた。雪解けや梅雨の時期になると大洪水が発生し、そのあとには水辺の植物である「蒲(がま)」が生い茂るため、「水沼の蒲原(がまはら)」と呼ばれていた。
福島潟干拓
正保越後国絵図(正保4年(1647))によれば、福島潟は横3,400m、長さ4,900mと記載され、県内では特に大きな湖沼でした。
当時、この新発田地域には、ほかに塩津潟(紫雲寺潟)や島見前潟があり、川の遊水池として水害、水利調整池としての役割を担っていました。湖沼が多かった新発田藩では、自作地や小作人として働く場所も少なく、藩の収入を確保するため、湖沼の排水改良を盛んに行いました。
しかし、福島潟では、ほかの2つの潟に比べ水深が深く、当時の土木技術では対応出来ませんでしたが、福島潟周辺の農民は、どんな苦労をしても田を広げ、1本でも多くの稲を植えたいと願っていました。
享保15年(1730)、新発田藩は幕府の許可を得て、信濃川と合流していた阿賀野川の上水を日本海に直接流すため、延べ11万5千人も使い、松ヶ崎分水路工事を行いました。その翌年の雪解け水で川幅が広がり、その分水路が阿賀野川の本流となり、福島潟周辺の水位は2mも下がり、3,800ヘクタールもの土地ができ、今の葛塚、太田、木崎、鳥屋、早通の集落が生まれました。
宝暦5年(1755)には、柏崎の山本丈右衛門が幕府から許可を得て、福島潟の干拓工事を始めました。丈右衛門は、潟に流れ込む佐々木の古太田川の水を新発田川へ流すために、太田川を開削したり、新井郷川を直したりしました。潟の周り17の集落の人々が仕事を割り当てられ、丈右衛門に協力し、15年もかかってようやく189ヘクタールを干拓しました。
寛政2年(1790)には、水原代官所が市島徳次郎をはじめとする水原の13人に福島潟の干拓をさせることにしました。その方法は、土を掘り上げて囲土手を築き、囲いの中にマコモを植えて、地面を固め、上流から土を流して沼地を埋めたり、新井郷川の名目所に川を掘って水はけをよくしたりして干拓を進めました。
文政7年(1824)、幕府から13人衆の干拓を引き継ぐように命ぜられた新発田藩は、川の上流から大がかりな土砂を流し始め、また、山倉新道、飯塚新道などの土手を築いて福島潟を仕切り、干拓を行いました。
このようにして、13人衆や新発田藩で干拓された453ヘクタールの土地は、近くの村々に売り渡されたほか、まだ干拓されていない水面までも売られました。
嘉永5年(1852)には、新発田藩の庄屋であった斎藤家(七郎次永治)が新鼻新田を藩から買い取り、「新囲」の干拓を始めました。斎藤家は、明治14年には福島潟新田の約320ヘクタールのうち190ヘクタールを所有していましたが、明治19年には、新潟の鍛工場、沼垂の精米所、赤谷・間瀬の鉱山、製塩、蒸気船三吉丸の経営に取り組んでいた弦巻家が福島潟と新鼻新田の約160ヘクタールを所有するようになりました。弦巻家は、「新々囲」と「梅雨湖」の干拓を始めましたが、明治29年には、水原の豪商佐藤家に買い取られ、干拓が引き継がれました。その後、福島潟は、明治44年に“千町歩地主”といわれる市島家のものとなり、「山倉囲:明治45年」や「市島囲:昭和12年」干拓を行い、昭和31年まで潟を所有していました。
豊浦村誕生から現代へ
明治21年 (1888年) 中浦村・荒橋村・天王寺村が合併し、中浦村が誕生
昭和30年 (1955年) 中浦村・本田村、さらに福嶋村が合併し、豊浦村が誕生
昭和48年 (1973年) 町政施行により豊浦町(五十嵐佐治平町長)となる。
平成15年 (2003年) 豊浦町・新発田市が合併し、新発田市となる。